三代目と言えば?「山口組」三代目を思い浮かべる方!必読「沖縄ヤクザ史」

沖縄ヤクザ

第1次沖縄抗争

歴史的な大事件の幕開けとなる第1次沖縄抗争は、他愛もないことから突如として始まった。

それまで定期的に親睦会を行ってきた両派だったが、那覇で行われた酒宴を中座して又吉が席を発った。
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これを無礼と怒ったコザ派の過激分子は、1961年9月9日、又吉を自宅から旧日本軍の西原飛行場跡に連れ出し石や棍棒などで滅多打ちにするリンチを行った。

又吉は瀕死の重傷を負いながら一命を取りとめ、1962年1月15日、退院と同時にコザ派に宣戦布告。そして、約2年間の抗争を繰り広げることとなる。

この背景には、両派の勢力拡大により縄張り争いが生じ、きっかけとなる親睦会前に「コザ派が那覇派の本拠地である那覇に進出した」という噂が流れ、水面下で状況が煮えたぎっていたことがある。

そんな中、コザ派は又吉暗殺を本土の殺し屋に依頼。

1962年11月13、自宅付近で又吉が背後から短銃で撃たれ、またも死の淵を彷徨った。

ところが又吉はここでも生還。これにより「不死身の男」の異名を得ることとなる。

加速する抗争が沈静したのは、どちらかの勝敗が決したからではなかった。

市街で堂々と繰り広げられる非常事態に琉球警察は両団体の組員100名以上を大量検挙。

これにより物理的に勢いが弱まり、火種を燻らせたままとりあえずの鎮静を取り戻したのだ。

この抗争により多数の幹部や組員が傷つき失われただけでなく、何件もの裁判とこれに伴う多額の出費を抱えることとなった二組は、運営的大打撃を受けた。

 

抗争後の内部分裂

一端亀裂の入った組織は必然的に分裂していくこととなる。

喜舎場の引退後、新城がコザ派を引き継いだが、ここで大幹部だった喜屋武盛一は、約150名の組員を率いて新たに“泡瀬派”を名乗り独立。

残党を率いる新城はコザ派を“山原派(やんばるは)”と改名し一派の存続にあたった。

また、那覇派も約70名の組員を脱退させて“普天間派”を新設した田場盛孝により割られてしまう。

かくして1965年、沖縄ヤクザ界は、山原派、那覇派、泡瀬派、普天間派に四分割される。

 

第2次沖縄抗争

1964年11月、泡瀬派は旧コザ派首領であり山原派の顧問となっていた喜舎場の乗用車に短銃弾を撃ち込んだ。

山原派は直ちに泡瀬派の組員を刺して報復。ここから第2次抗争が勃発する。

この抗争の中で泡瀬派組員は誤って一般市民に犠牲者を出してしまった。

1965年8月、山原派は泡瀬派幹部4名を襲撃し殺傷。ここで両派は和解する。

一旦は平穏になった泡瀬派の抗争は、翌年、相手を変えて再燃する。

1966年4月11日、泡瀬派組員は些細なことから那覇派組員を殺してしまう。

喜屋武はこの事件の仲裁を山原派と普天間派に依頼したが失敗に終わり、泡瀬派はこれを山原派の妨害が原因と決め付け、1966年4月23日、喜舎場を再度襲撃。

これは短銃が暴発し未遂となったが、それにより泡瀬派は、他三派すべてを敵に回すこととなる。

三派連合の殲滅戦は強烈で、更に1966年6月30日、喜屋武が逮捕され、1967年1月、解散に追い込まれる。約2年の抗争は、四派あわせて482名が検挙され、630点の武器が押収された。

 

第3次沖縄抗争

消え去った泡瀬派の縄張りを独占しようとした山原派に普天間派が反発。

その流れの中、1967年3月3日、普天間派幹部宅に銃弾が撃ち込まれたことを契機に第3次抗争が勃発。

山原派は那覇派と手を組んで普天間派と対立した。

同年4月14日、那覇派と普天間派が睨みあう中で行われた裁判中、那覇派組員が裁判所内になだれ込み、普天間派組員2名に暴行を加えるという事件で世間を驚かせた。

抗争肥大は止まらず、4月23日、普天間派経営の遊技場にダイナマイトが投げ込まれ、4月25日、普天間派のパチンコ店で火炎瓶が炎上、5月14日に田場の自宅を5人組が襲撃し短銃を乱射し普天間派1名が死亡、10月29日、田場邸に正面玄関から乗り込んだ2名が田場のこめかみに銃弾を撃ち込んで殺した。

組長が殺害されるまで自宅に山原派と那覇派が10回もの襲撃を繰り返しており、警備に当たっていた普天間派組員は疲れ果て、全員が寝込んでしまっていた早暁の出来事だった。

あまりに強烈な首領の獲られ方をした普天間派は報復へといきり立ったが、田場夫人の説得により、11月10日、解散した。

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