三代目と言えば?「山口組」三代目を思い浮かべる方!必読「沖縄ヤクザ史」

本土復帰と沖縄連合旭琉会結成

本土復帰と沖縄連合旭琉会結成

1970年頃より沖縄本土復帰の気運が高まっていたが、山原派と那覇派の二派は第三次抗争で大いに疲弊していた。

そこで利権を狙う本土ヤクザ進出の動きが活発化し、これに対抗する為にそれまでの因縁を捨てて両派が手を結び、1970年12月8日、「沖縄連合旭琉会」が誕生する。

仲本善忠が会長、理事長に新城、又吉と脇を固め万全の布陣、両派で42団体、約800名を傘下としたこの大同団結が沖縄組織ヤクザの最初である。
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最大の修羅場、第4次沖縄抗争

沖縄連合旭琉会の誕生により沖縄ヤクザ界は安定期に入るかと思われたが、それは4年と持たず史上最大の抗争劇を迎えることとなる。

理事である新城と大幹部の上原勇吉の反目で、1974年9月17日、上原が謹慎処分を受けることとなったが、この諍いが飛び火したかのように数日後の9月20日、旭琉会系宮城組の組員と上原組構成員が那覇のバーで喧嘩となり、打ちのめされた宮城組員が報復で上原組員7名を拉致監禁し暴行を加えた。

その中の一人は男性器をペンチで捩じ切られる酷さだった。

これにより上原は旭琉会を脱退。約50名の上原組に対し旭琉会約800名の争いとなり、第4次抗争が勃発する。

当初は上原も旭琉会全体と対立する意思はなく、又吉に「これはあくまで新城との争い」と旧那覇派の傍観を頼んだが、旭琉会分裂を危惧する又吉はよしとせず、上原組は孤立無援となった。

そんな中、1974年10月5日、上原は那覇警察署に上原組の解散声明を提出した。

だが、同月24日、宜野湾のクラブ「ユートピア」で新城を見つけた上原グループ構成員が短銃で2メートルの至近距離から発砲し即死させる。

加害者は大抗争のきっかけとなるリンチで暴行を受けた7名の一人だった。

沖縄ヤクザ界の大物、ミンタミーはこうして暗殺の憂き目に沈んだ。

追い詰められた上原グループは隠れ家に籠るが、そこにダンプが突っ込むなど旭琉会の追随の手は緩むことがなかった。

だが、反撃する上原グループも凄まじく、12月12日、那覇の又吉理事の邸宅に手榴弾を投げ込み爆破。又吉は不在で無事だった。

この辺りから上原当人は地下に潜り行方をくらました。

手榴弾の衝撃に続き「ダイナマイトが用意されている」との情報があり、沖縄県警は130名を増員して特別警戒を強化。

しかし、当時、旭琉会だけで構成員約880名に膨れ上がっていた大組織をマークしきることは困難だった。

市民の不安が広がる中、糸満市「平和の塔」の下に上原組幹部の死体が遺棄されるなど世間が暴力団廃絶に大きく傾く情勢ができ上がっていく。

1975年2月、籠城する元上原組員3名を巧妙に誘い出した新城一派は、彼らを山中に連れ出し上原の居場所を詰問。

その間、4時間以上も穴を掘らせ、最後まで口を割らない男たちを射殺してそのまま埋めた。

そんな凄惨な追い込みが続けど、元上原組は反撃を止めない。

1975年10月16日、土佐犬の散歩にバイクで外出した又吉を背後から急襲し短銃4発の銃弾にて射殺。

ミンスターを追うように不死身のスターまでもがこの抗争で鬼籍に入ることとなった。

そして、窮鼠が猫を噛んだ状態の上原グループは禁断の手段に出る。

それまで小規模ながらも沖縄に進出していいた日本最大の暴力団、山口組と手を組んで、1976年に発足した山口組系の沖縄支部たる「琉真会」に加わり上原組を再興、第4次抗争は旭琉会対琉真会へとスケールアップしてしまう。

警察の取り締まりも苛烈となり、仲本会長が逮捕され、二名の大物理事長が殺された沖縄連合旭琉会は、多和田真山を会長とする二代目体制となり「沖縄旭琉会」と改名する。

1977年1月25日に起こった暴行事件から抗争が更に激化し、ここから8カ月で23件の事件が頻発する。

5月18日に起こった銃撃事件の犯人は元警察官だった。

8月11日、琉真会事務所を警戒する機動隊がいる中、殴りこんできた琉真会は、カービン銃と手榴弾で正面から銃撃戦を演じた。

県警は「暴力団が発砲してきたら射殺もやむを得ない」と異例の声明を発表する。

世論の暴力団排除運動も極限に達し、県警はこの抗争で幹部146人を含む588名を検挙。

この数は沖縄ヤクザの7割強となる数字である。

暴力団壊滅作戦は官民一体となって盛り上がり「暴力団を利用しない、されない、恐れない」のスローガンを掲げ広がっていく。

長期逃亡中の上原勇吉の実弟である上原組、上原秀吉組長など幹部が一斉に逮捕され上原組員は数名も残らない状態となり、琉真会、仲本正弘組長が逮捕され幹部も軒並み指名手配となり戦闘力を失っていった。

一方、旭琉会も多和田会長など大幹部が逮捕され、沖縄史に残る大抗争は、1978年5月13日、県警の警戒解除により一応の終結となる。

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