三代目と言えば?「山口組」三代目を思い浮かべる方!必読「沖縄ヤクザ史」

沖縄ヤクザ

山口組との和僕と第5次沖縄抗争

1981年7月、山口組系吉川組、野上哲男組長と多和田らが五分杯の兄弟分となり、旭琉会と山口組は和睦する。

多和田はこれを機に組織改革を実施したが、山口組との一件に対する反発やこれに対する根強い不満が原因で、1982年10月9日、傘下組織構成員の手により射殺された。
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第4次抗争で旭琉会の攻撃を受けていた上原組は、多和田会長射殺を機に再び反撃を狙っていたが、旭琉会新和一家がこれに警告を発する。

だが、1983年4月、新和一家総長殺人未遂事件が発生し第5次抗争が始まる。

しかし、ここで素早く動いた警察の対応と旭琉会の自重により、この抗争は約1カ月で終結した。

 

三代目体制から再分裂、第6次沖縄抗争

射殺された二代目、多和田の後を受けた翁長良宏が、1983年5月、三代目会長に就任。改めて団体名を「旭琉会」をし、富永清理事長を次席に置く組織体制で運営されることとなり、それから7年間は平和が保たれた。

ところが1990年に入り翁長派と富永派の内部対立が表面化し、統一組織はまたも分裂と相成る。

1990年9月13日、翁長派の丸長一家事務所に富永一家の組員が乱入する事件が発生。

これにより旭琉会は、9月17日、富永派の絶縁処分を発表。富永派は9月19日に「沖縄旭琉会」を結成する。

旭琉会と沖縄旭琉会は、分裂直後から過激な抗争を繰り広げ、その業火は無辜の市井にも飛び散ってしまう。

1990年11月22日、工事のアルバイト中だった高校生が旭琉会組員と間違えられ沖縄旭琉会組員に射殺された。

その翌日、覆面パトカーに乗った警戒中の私服警察官2名が、旭琉会錦一家組員に職務質問しようとしたところ、沖縄旭琉会の組員と勘違いされて射殺される。

更に同犯人は、事件を目撃した主婦にも発砲して足に重傷を負わせた。

激化する抗争は街中のカーチェイスや火炎瓶連続投擲など数々の凶悪事件を引き起こし、一般世論を巻き込んだ暴力団排除運動が立ち上がり、暴力団対策法の制定や沖縄県警の取り締まり強化に繋がった。

そして、暴対法施行直前の1992年2月、この抗争に終結宣言が出された。続いて、旭琉会と沖縄旭琉会は、暴力団対策法の定める指定暴力団となる。

両団体は抗争こそ表面化しなかったものの冷戦状態のまま20余年にわたって並立していく。

 

合併による旭琉會の誕生

2010年、翁長が旭琉会会長の座を退き、花城松一が四代目を襲名。

この継承式の儀に際して花城の後見人となったのは、沖縄旭琉会の富永会長であった。

翌2011年、両組織の一本化が正式決定。

旭琉会分裂から21年を経て再統一された。

これは、沖縄旭琉会による吸収合併という形であり、指定暴力団として1992年の暴力団対策法施行以来全国初。

新組織名は“旭琉會”となった。

会長は富永、花城は次席の会長代行となった。これにより暴力団対策法に基づく同団体への指定名も旭琉會となる。

1970年の沖縄連合旭琉会結成から第6次にわたる抗争の傍で、1965年頃、本土の東声会沖縄支部として発足し、小規模ながら旭琉会系以外として活動していた誼(よしみ)興業は、2012年3月をもって解散しており、旭琉會は沖縄県唯一の組織暴力団として現在も活動している。

 

1980年代、三代目体制で統一されていいた旭琉会は1000名以上の構成員を擁し繁栄したが、沖縄県警発表の2014年3月時点での旭琉会組員は約470名となっている。

沖縄戦からアメリカ世、その陰で戦果アギャーをもぎ取ったアシバーは、必要悪から沖縄ヤクザとなり、50年以上に渡り激しい抗争を繰り広げ、多くの一般市民も巻き込み戦世の災禍を撒き散らしてきた。

近年、その活動は密やかになっているものの確実にアンダーグランド世界は存在し、そこを仕切るアウトローは休むことなく活動している。

健全な社会の影裏に生きる彼らを“ならず者”として忌み嫌うのは当然のことだろうが、歴史的に不当な差別を受け続けたウチナンチューは「そう生きるしかない」者への理解と邂逅の道を見つけることもまたできるのではないだろうか。

それが戦世を永遠に眠らせる方法なのかもしれない。

著:藍浦夏樹

参照

DVD「伝説の親分 沖縄ヤクザ 新城喜史・又吉世喜」GPミュージアムソフト

HP「沖縄県内暴力団の概要」沖縄県警察

ムック本「沖縄ヤクザ50年戦争―分裂、抗争、統一、そして分裂」洋泉社

書籍「沖縄県警察史 第3巻(昭和後編)」沖縄県警察史編さん委員会

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