沖縄ヤクザ史

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沖縄ヤクザ史 ~戦世50年~

琉球王朝が17世紀早々に薩摩藩の支配下となった薩摩世(さつまゆ)、19世紀、明治政府から強制された琉球処分による大和世(やまとゆ)、第二次世界大戦敗戦後のアメリカ世(あめりかゆ)と長年にわたり植民地としての歴史を持つ沖縄は“日本”でありながら独特の大和不信を根に持ち、本土の差別と闘ってきた。

そんな土壌の中、沖縄のヤクザは大和の任侠とは一線を画する発祥があり、独特の道を歩んでいる。

沖縄本島民の3名に1名が命を落とした太平洋戦争、連合国アメリカは、その直後も過酷な支配統治により民衆の苦しみを終戦と共に断ち切ることなく続けさせた。

その主だった地獄は食糧不足による餓え。

占領軍の備蓄庫から食料を盗まざるを得ない生存闘争は“戦果アギャー”と呼ばれ、これを強行する義賊“アシバー”が沖縄ヤクザの発露とされている。

博徒や神農(的屋)を元とする本土のヤクザとは大きく違う所以だ。

命を懸けた荒事を遂行するアシバーは、段々と愚連隊化し、徒党を組んで組織化していく。

特飲街の治安維持と“ターリー” 喜舎場朝信、“ミンタミー” 新城喜史、コザ派

ミンタミー
新城喜史

そんな終戦直後の混乱も収まってくると進駐軍の慰安場所として越来村(現沖縄市)にAサインバー(米軍が許可した軍属利用可の酒場)が立ち並び、賑わい、特需をもたらした。

しかし、占領軍的意識の強い米兵が悪酔いすれば、暴行や踏み倒し、器物破損が日常茶飯事となり、彼らの逮捕権を持たない警察官やいつ来るとも知れないMP(ミリタリーポリス)だけでは店舗の安全を維持できなくなり、自衛の為に民間セキュリティーたる用心棒が必要とされることとなる。そこに当てはまった強者が元アシバーたちであった。

そんな彼らをグループ化して束ねたのが“ターリー”と呼ばれる顔役、喜舎場朝信である。

沖縄最大の歓楽街だったコザでは“十人組”というリーダーたちが喜舎場の下に集まったが、ここで最も頭角を現したのが伝説の親分“ミンタミー”新城喜史だ。

豪放磊落で面倒見の良い親分肌の新城を慕う輩は増加し、大グループ“コザ派”が形成される。

“スター”又吉世喜と那覇派

又吉世喜
又吉世喜

コザに続いてAサインバーや風俗店が集まり活況を呈した那覇は、アシバー達とはまた違う空手を嗜む喧嘩自慢が用心棒の職に就き別働グループを形成していた。

その中心となったのが“スター”こと又吉世喜である。

幼少期から剛柔琉の空手を習い天才的なセンスを発揮した又吉の膂力に敵う者はなく、孤独を好み質実剛健で控えめな性格ながら必然的にボスへと押し上げられて“那覇派”を率いることとなる。

コザ派と那覇派の両軸を束ねる喜舎場は、新城が長男、又吉は次男かのように可愛がり沖縄アウトロー界のバランスを保っていた。

1952年よりしばらく、両派は地理的にテリトリーが離れていたこともあり利害関係に衝突はなく10年ほど何事もない共存路線が続く。

だが、1961年より始まる抗争は「本土とは比べ物にならない」と形容される程の過激さで凄惨な事件を重ねていく。

本土ヤクザとの違い

ここで本土の任侠と沖縄ヤクザの違いを解説したい。

① 歴史が短い 戦後から新生した沖縄ヤクザには長い伝統が存在しなかった。

② 任侠思想、擬制血縁がない 親分と子分が盃を交わすような慣習がなく、任侠道を説く教育もなされなかった。

③ 上下関係の緩慢 任侠的親子の厳しい上下関係ではなく、兄弟(ちょーでー)といった調子で緩やかに結ばれており、その分、忍耐の導火線も短かった。

④ 小グループ中心の組織的構造 血縁や地縁を中心とした数人の小グループを中心とする為、組織力が弱く、利害や感情のもつれから喧嘩になりやすい。

⑤ 絶対的仲裁者の欠如 圧倒的な力を持つ大親分や第三者勢力が皆無で、抗争事件が起こった場合、仲裁に立つ存在がなかった。

⑥ 武器調達の安易

米軍流れの銃器が入手し易く、しかも強力な火器や手榴弾などの武器が本土よりも多く流通していた。

当初は“組”や“一家”といった本土的な団体名を名乗らなかったことからも独特な沖縄ヤクザは、これらの特徴から抗争を始め易く、それをエスカレートさせる傾向が強かった。

“戦世(いくさゆ)”と形容されるほどの過激な抗争劇は、現在に至るまで第6次に分別されるまで長く続いていく。

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第1次沖縄抗争

歴史的な大事件の幕開けとなる第1次沖縄抗争は、他愛もないことから突如として始まった。

それまで定期的に親睦会を行ってきた両派だったが、那覇で行われた酒宴を中座して又吉が席を発った。

これを無礼と怒ったコザ派の過激分子は、1961年9月9日、又吉を自宅から旧日本軍の西原飛行場跡に連れ出し石や棍棒などで滅多打ちにするリンチを行った。

又吉は瀕死の重傷を負いながら一命を取りとめ、1962年1月15日、退院と同時にコザ派に宣戦布告。そして、約2年間の抗争を繰り広げることとなる。

この背景には、両派の勢力拡大により縄張り争いが生じ、きっかけとなる親睦会前に「コザ派が那覇派の本拠地である那覇に進出した」という噂が流れ、水面下で状況が煮えたぎっていたことがある。

そんな中、コザ派は又吉暗殺を本土の殺し屋に依頼。

1962年11月13、自宅付近で又吉が背後から短銃で撃たれ、またも死の淵を彷徨った。

ところが又吉はここでも生還。これにより「不死身の男」の異名を得ることとなる。

加速する抗争が沈静したのは、どちらかの勝敗が決したからではなかった。

市街で堂々と繰り広げられる非常事態に琉球警察は両団体の組員100名以上を大量検挙。

これにより物理的に勢いが弱まり、火種を燻らせたままとりあえずの鎮静を取り戻したのだ。

この抗争により多数の幹部や組員が傷つき失われただけでなく、何件もの裁判とこれに伴う多額の出費を抱えることとなった二組は、運営的大打撃を受けた。

抗争後の内部分裂

一端亀裂の入った組織は必然的に分裂していくこととなる。

喜舎場の引退後、新城がコザ派を引き継いだが、ここで大幹部だった喜屋武盛一は、約150名の組員を率いて新たに“泡瀬派”を名乗り独立。

残党を率いる新城はコザ派を“山原派(やんばるは)”と改名し一派の存続にあたった。

また、那覇派も約70名の組員を脱退させて“普天間派”を新設した田場盛孝により割られてしまう。

かくして1965年、沖縄ヤクザ界は、山原派、那覇派、泡瀬派、普天間派に四分割される。

第2次沖縄抗争

1964年11月、泡瀬派は旧コザ派首領であり山原派の顧問となっていた喜舎場の乗用車に短銃弾を撃ち込んだ。

山原派は直ちに泡瀬派の組員を刺して報復。ここから第2次抗争が勃発する。

この抗争の中で泡瀬派組員は誤って一般市民に犠牲者を出してしまった。

1965年8月、山原派は泡瀬派幹部4名を襲撃し殺傷。ここで両派は和解する。

一旦は平穏になった泡瀬派の抗争は、翌年、相手を変えて再燃する。

1966年4月11日、泡瀬派組員は些細なことから那覇派組員を殺してしまう。

喜屋武はこの事件の仲裁を山原派と普天間派に依頼したが失敗に終わり、泡瀬派はこれを山原派の妨害が原因と決め付け、1966年4月23日、喜舎場を再度襲撃。

これは短銃が暴発し未遂となったが、それにより泡瀬派は、他三派すべてを敵に回すこととなる。

三派連合の殲滅戦は強烈で、更に1966年6月30日、喜屋武が逮捕され、1967年1月、解散に追い込まれる。約2年の抗争は、四派あわせて482名が検挙され、630点の武器が押収された。

第3次沖縄抗争

消え去った泡瀬派の縄張りを独占しようとした山原派に普天間派が反発。

その流れの中、1967年3月3日、普天間派幹部宅に銃弾が撃ち込まれたことを契機に第3次抗争が勃発。

山原派は那覇派と手を組んで普天間派と対立した。

同年4月14日、那覇派と普天間派が睨みあう中で行われた裁判中、那覇派組員が裁判所内になだれ込み、普天間派組員2名に暴行を加えるという事件で世間を驚かせた。

抗争肥大は止まらず、4月23日、普天間派経営の遊技場にダイナマイトが投げ込まれ、4月25日、普天間派のパチンコ店で火炎瓶が炎上、5月14日に田場の自宅を5人組が襲撃し短銃を乱射し普天間派1名が死亡、10月29日、田場邸に正面玄関から乗り込んだ2名が田場のこめかみに銃弾を撃ち込んで殺した。

組長が殺害されるまで自宅に山原派と那覇派が10回もの襲撃を繰り返しており、警備に当たっていた普天間派組員は疲れ果て、全員が寝込んでしまっていた早暁の出来事だった。

あまりに強烈な首領の獲られ方をした普天間派は報復へといきり立ったが、田場夫人の説得により、11月10日、解散した。

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本土復帰と沖縄連合旭琉会結成

1970年頃より沖縄本土復帰の気運が高まっていたが、山原派と那覇派の二派は第三次抗争で大いに疲弊していた。

そこで利権を狙う本土ヤクザ進出の動きが活発化し、これに対抗する為にそれまでの因縁を捨てて両派が手を結び、1970年12月8日、「沖縄連合旭琉会」が誕生する。

仲本善忠が会長、理事長に新城、又吉と脇を固め万全の布陣、両派で42団体、約800名を傘下としたこの大同団結が沖縄組織ヤクザの最初である。

最大の修羅場、第4次沖縄抗争

沖縄連合旭琉会の誕生により沖縄ヤクザ界は安定期に入るかと思われたが、それは4年と持たず史上最大の抗争劇を迎えることとなる。

理事である新城と大幹部の上原勇吉の反目で、1974年9月17日、上原が謹慎処分を受けることとなったが、この諍いが飛び火したかのように数日後の9月20日、旭琉会系宮城組の組員と上原組構成員が那覇のバーで喧嘩となり、打ちのめされた宮城組員が報復で上原組員7名を拉致監禁し暴行を加えた。

その中の一人は男性器をペンチで捩じ切られる酷さだった。

これにより上原は旭琉会を脱退。約50名の上原組に対し旭琉会約800名の争いとなり、第4次抗争が勃発する。

当初は上原も旭琉会全体と対立する意思はなく、又吉に「これはあくまで新城との争い」と旧那覇派の傍観を頼んだが、旭琉会分裂を危惧する又吉はよしとせず、上原組は孤立無援となった。

そんな中、1974年10月5日、上原は那覇警察署に上原組の解散声明を提出した。

だが、同月24日、宜野湾のクラブ「ユートピア」で新城を見つけた上原グループ構成員が短銃で2メートルの至近距離から発砲し即死させる。

加害者は大抗争のきっかけとなるリンチで暴行を受けた7名の一人だった。

沖縄ヤクザ界の大物、ミンタミーはこうして暗殺の憂き目に沈んだ。

追い詰められた上原グループは隠れ家に籠るが、そこにダンプが突っ込むなど旭琉会の追随の手は緩むことがなかった。

だが、反撃する上原グループも凄まじく、12月12日、那覇の又吉理事の邸宅に手榴弾を投げ込み爆破。又吉は不在で無事だった。

この辺りから上原当人は地下に潜り行方をくらました。

手榴弾の衝撃に続き「ダイナマイトが用意されている」との情報があり、沖縄県警は130名を増員して特別警戒を強化。

しかし、当時、旭琉会だけで構成員約880名に膨れ上がっていた大組織をマークしきることは困難だった。

市民の不安が広がる中、糸満市「平和の塔」の下に上原組幹部の死体が遺棄されるなど世間が暴力団廃絶に大きく傾く情勢ができ上がっていく。

1975年2月、籠城する元上原組員3名を巧妙に誘い出した新城一派は、彼らを山中に連れ出し上原の居場所を詰問。

その間、4時間以上も穴を掘らせ、最後まで口を割らない男たちを射殺してそのまま埋めた。

そんな凄惨な追い込みが続けど、元上原組は反撃を止めない。

1975年10月16日、土佐犬の散歩にバイクで外出した又吉を背後から急襲し短銃4発の銃弾にて射殺。

ミンスターを追うように不死身のスターまでもがこの抗争で鬼籍に入ることとなった。

そして、窮鼠が猫を噛んだ状態の上原グループは禁断の手段に出る。

それまで小規模ながらも沖縄に進出していいた日本最大の暴力団、山口組と手を組んで、1976年に発足した山口組系の沖縄支部たる「琉真会」に加わり上原組を再興、第4次抗争は旭琉会対琉真会へとスケールアップしてしまう。

警察の取り締まりも苛烈となり、仲本会長が逮捕され、二名の大物理事長が殺された沖縄連合旭琉会は、多和田真山を会長とする二代目体制となり「沖縄旭琉会」と改名する。

1977年1月25日に起こった暴行事件から抗争が更に激化し、ここから8カ月で23件の事件が頻発する。

5月18日に起こった銃撃事件の犯人は元警察官だった。

8月11日、琉真会事務所を警戒する機動隊がいる中、殴りこんできた琉真会は、カービン銃と手榴弾で正面から銃撃戦を演じた。

県警は「暴力団が発砲してきたら射殺もやむを得ない」と異例の声明を発表する。

世論の暴力団排除運動も極限に達し、県警はこの抗争で幹部146人を含む588名を検挙。

この数は沖縄ヤクザの7割強となる数字である。

暴力団壊滅作戦は官民一体となって盛り上がり「暴力団を利用しない、されない、恐れない」のスローガンを掲げ広がっていく。

長期逃亡中の上原勇吉の実弟である上原組、上原秀吉組長など幹部が一斉に逮捕され上原組員は数名も残らない状態となり、琉真会、仲本正弘組長が逮捕され幹部も軒並み指名手配となり戦闘力を失っていった。

一方、旭琉会も多和田会長など大幹部が逮捕され、沖縄史に残る大抗争は、1978年5月13日、県警の警戒解除により一応の終結となる。

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山口組との和僕と第5次沖縄抗争

1981年7月、山口組系吉川組、野上哲男組長と多和田らが五分杯の兄弟分となり、旭琉会と山口組は和睦する。

多和田はこれを機に組織改革を実施したが、山口組との一件に対する反発やこれに対する根強い不満が原因で、1982年10月9日、傘下組織構成員の手により射殺された。

第4次抗争で旭琉会の攻撃を受けていた上原組は、多和田会長射殺を機に再び反撃を狙っていたが、旭琉会新和一家がこれに警告を発する。

だが、1983年4月、新和一家総長殺人未遂事件が発生し第5次抗争が始まる。

しかし、ここで素早く動いた警察の対応と旭琉会の自重により、この抗争は約1カ月で終結した。

三代目体制から再分裂、第6次沖縄抗争

射殺された二代目、多和田の後を受けた翁長良宏が、1983年5月、三代目会長に就任。改めて団体名を「旭琉会」をし、富永清理事長を次席に置く組織体制で運営されることとなり、それから7年間は平和が保たれた。

ところが1990年に入り翁長派と富永派の内部対立が表面化し、統一組織はまたも分裂と相成る。

1990年9月13日、翁長派の丸長一家事務所に富永一家の組員が乱入する事件が発生。

これにより旭琉会は、9月17日、富永派の絶縁処分を発表。富永派は9月19日に「沖縄旭琉会」を結成する。

旭琉会と沖縄旭琉会は、分裂直後から過激な抗争を繰り広げ、その業火は無辜の市井にも飛び散ってしまう。

1990年11月22日、工事のアルバイト中だった高校生が旭琉会組員と間違えられ沖縄旭琉会組員に射殺された。

その翌日、覆面パトカーに乗った警戒中の私服警察官2名が、旭琉会錦一家組員に職務質問しようとしたところ、沖縄旭琉会の組員と勘違いされて射殺される。

更に同犯人は、事件を目撃した主婦にも発砲して足に重傷を負わせた。

激化する抗争は街中のカーチェイスや火炎瓶連続投擲など数々の凶悪事件を引き起こし、一般世論を巻き込んだ暴力団排除運動が立ち上がり、暴力団対策法の制定や沖縄県警の取り締まり強化に繋がった。

そして、暴対法施行直前の1992年2月、この抗争に終結宣言が出された。続いて、旭琉会と沖縄旭琉会は、暴力団対策法の定める指定暴力団となる。

両団体は抗争こそ表面化しなかったものの冷戦状態のまま20余年にわたって並立していく。

合併による旭琉會の誕生

2010年、翁長が旭琉会会長の座を退き、花城松一が四代目を襲名。

この継承式の儀に際して花城の後見人となったのは、沖縄旭琉会の富永会長であった。

翌2011年、両組織の一本化が正式決定。

旭琉会分裂から21年を経て再統一された。

これは、沖縄旭琉会による吸収合併という形であり、指定暴力団として1992年の暴力団対策法施行以来全国初。

新組織名は“旭琉會”となった。

会長は富永、花城は次席の会長代行となった。これにより暴力団対策法に基づく同団体への指定名も旭琉會となる。

1970年の沖縄連合旭琉会結成から第6次にわたる抗争の傍で、1965年頃、本土の東声会沖縄支部として発足し、小規模ながら旭琉会系以外として活動していた誼(よしみ)興業は、2012年3月をもって解散しており、旭琉會は沖縄県唯一の組織暴力団として現在も活動している。

1980年代、三代目体制で統一されていいた旭琉会は1000名以上の構成員を擁し繁栄したが、沖縄県警発表の2014年3月時点での旭琉会組員は約470名となっている。

沖縄戦からアメリカ世、その陰で戦果アギャーをもぎ取ったアシバーは、必要悪から沖縄ヤクザとなり、50年以上に渡り激しい抗争を繰り広げ、多くの一般市民も巻き込み戦世の災禍を撒き散らしてきた。

近年、その活動は密やかになっているものの確実にアンダーグランド世界は存在し、そこを仕切るアウトローは休むことなく活動している。

健全な社会の影裏に生きる彼らを“ならず者”として忌み嫌うのは当然のことだろうが、歴史的に不当な差別を受け続けたウチナンチューは「そう生きるしかない」者への理解と邂逅の道を見つけることもまたできるのではないだろうか。

それが戦世を永遠に眠らせる方法なのかもしれない。

著:藍浦夏樹

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参照

DVD「伝説の親分 沖縄ヤクザ 新城喜史・又吉世喜」GPミュージアムソフト

HP「沖縄県内暴力団の概要」沖縄県警察

ムック本「沖縄ヤクザ50年戦争―分裂、抗争、統一、そして分裂」洋泉社

書籍「沖縄県警察史 第3巻(昭和後編)」沖縄県警察史編さん委員会



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